東日本大震災 法律相談日誌5

2011(H23)年5月2日 法律相談第3日目

 今日は、最終日である。集合場所に6時30分に到着し、車5台ほどで列をなしてαに向かう。αは、まだ寒く、春の訪れは遅い。桜の花のつぼみは、まだ、硬い。

 一路、βの仮庁舎に向かう。βに入った。β、ここはγの近くのようだ。ここの惨状も、Zと同じだ。しかし、今日は、突風がある。いつもこうなのだろうか。砂埃が激しい。ときどき、竜巻のような渦巻く突風が自動車の前に立ち上がる。この渦の中に自動車は、走り入っていくが、自動車が持ち上げられるのではないかの気持ちがよぎる。「全員、防塵マスクを付けよう」と言う互いの言葉を待たずに、全員防塵マスクを付け出した。それほど、砂塵と荒廃した惨状であり、さながら戦場──いや、戦場は、これよりもっとひどい内容だろうと打ち消した。

 建物は、他の被災地と違い、焼けただれている。鉄骨が錆ついている。自動車も瓦礫の中で、ひっくり返って車輪部を上げている。あるいは、自動車の原形をとどめず、僅かに車輪部から自動車だろうと思える。これらの残骸は、塗装が落ち鉄板がむき出しとなって、赤錆に染まっている。他では、木材の残骸と一緒になっているが、ここでは、赤茶けた鉄骨の残骸がむき出しに転がっている。この残骸の間を進むと、突風が来る。砂埃が舞い、トタン板が飛びはね、ビニールの切れ端が舞い上がる。ときどき焼けただれ、煤にまみれた建物が連なる。テレビで見た津波襲来後の火災によるものではないかと思う。自衛隊の隊員が残骸を除去し、トラックの出入りを誘導し、軍事車両、ユンボが行き交う。戦場さながらの光景である。

 β、ここは庁舎が津波で2階まで浸水し、町長ら職員の4分の1の方々が犠牲となった。役場は、仮に設置された2階建てのプレハブ6棟だった。静岡隊は、δ小学校に設置されていたJ避難所とこの近隣の避難場所の担当となった。δ小学校に向かった。許可を得て校庭の一角に自動車を置き、J避難所に向かう。校庭では、小学生が体育の授業を受けていた。校庭の一角には、郵便局が自動車出張郵便局を配備していた。挨拶がてら、職員に郵便の利用状況を聞きながら、J避難所の場所と責任者に会うにはどこへ行けばよいかを聞いたところ、J避難所は、小学校が始まってから別の地に移ったとのことだった。場所を教えてもらうが、標識になる建物はすべて流されているので、何を基準に探していけばよいか困った。J避難所は、旧δ中体育館へ移転していた。旧δ中学校は、「45号線のδ1丁目バス停のそばにあります。」とあった。

 最後の日の昼食は、旅館へポットを返すことができない行程なので、おにぎりとなった。避難場所、旧δ中体育館は、強風が吹き荒れていた。この駐車場の車の中で食べた。

 法律相談は、いつものように被災者の足元へ行き、当方から話を聞くように進めた。被災者の方から地震保険を聞かれた。〇〇火災だと思うが、書類は全て流されて資料がない。どうしたらよいか、である。確かに、書類は流出してしまう。調べたところ、下記の通りであった。

 〇〇火災の連絡先は、被害の連絡先(24時間・365日)

 建物(地震保険)やケガ等の事故 0120-******

地震保険の契約をどの保険会社としているか不明の場合などに対応しているのは、下記であった。

 社団法人日本損害保険協会 地震保険契約会社照会センター

 (月〜金(祝日は除く)9:00〜17:00) 0120-501331

 午後2時30分、ε小学校へ向かった。K避難所には、テントが張ってあり、ここに役員らしき人達が数人見える。私は、深く頭を垂れ、見舞いを告げると共に、静岡から来た弁護士であること、事情を聞きたいこと、そして、もし希望があれば、法律相談を受けたい、との話をしたところ、「すでに弁護士が昨日来たので、いらない。そんなに入れ替わり立ち替わり来て貰わなくて良い。」とのことだった。役員らしき人達は、「そこで、聞きたいが、昨日、弁護士が来て、聞いた者が話していた。ここで、債務は免除されるので、支払わなくて良い、と言っていた。相談を受けた人は、随分喜んでいたが、私は、おかしい、と思う。」と、剣幕が厳しい。私は、「もっともです。おっしゃるとおり、原則どおり、債務は残ります。ですが、多くの被災者は、家もなくなり、債務だけが残るのでは生活ができない。私たち弁護士は、この苦境を乗り越えるには、債務は免除されるべきであり、それを法律上、制定されるよう運動する所存である、この法律はまだ制定されていない。すでに相談された弁護士も、そのように言っているものと思います。」と説明したところ、「そうだろう。それならば、納得できる。明日お願いできないでしょうか、明日であれば、相談を受ける体制ができるので、是非、そうしてほしい。」と、柔和な対応となった。残念ながら、今日までで、明日は、帰る予定なので、今日、相談に切り替えられないでしょうか。と話したが、今日は、調整がつかない、とのことで断念した。

 最後の避難所への訪問の後、T夫妻と別れた。二人は、奥さんの友人のところへ訪ねて行くとのことであった。H弁護士、N弁護士、Wさん、後藤正治の4人は、岩手県最後の宿泊であるζ市のη温泉にたどり着いた。ここまで、アクシデント、怪我もなく、無事にたどり着いたことにホッとするとともに感謝した。

 η温泉は、3つの館に別れていた。立派な旅館施設の中に湯治部も設け、併設していることに驚く。自炊部には、被災で避難されている方々がいた。旅館内で、我々がすれ違う方々に会釈をして、相手の方を優先して立ち止まっていると、我々の弁護士バッジに気がついて、話しかけてきた。ここでも、立ち姿での法律相談となった。涙一杯ためられた被災者の方の「最近、やっと涙をだせるようになりました」、と言う中で、話を伺ったが、財産のみならず、家族を失って失意の中にいる方々が負債で苦しむことを見逃すことはできない。立法で解決していかなければ、到底、対応できるものではないことを痛感した。

2011.5.2(月)後藤正治 記